緋色のことば

私的なことばを書き連ねたり、SFを書いたりします。

糸井重里「小さいことばを歌う場所」

 

小さいことばを歌う場所 (ほぼ日ブックス)

小さいことばを歌う場所 (ほぼ日ブックス)

 

糸井さんについては「典型的な天才」ゆえの鋭さが肌に合わないと思っていて、文章としての作品にはほぼ触れてこなかった。完全に僕の思い込みであり、今になって後悔している。

興味を持つきっかけはつい最近のことで、テレビで見た対談番組「SWITCHインタビュー 達人達」での、芦田愛菜さんとの対談を見てからだ。年齢的なこともあるだろうけど、昔のイメージとは違う、ずいぶん柔らかい雰囲気が印象的だった。孫でもおかしくない年頃である芦田さんを相手にして、敬意ある態度を自然に取れる様子が、一言で言うなら「カッコよかった」のですよ。

というわけで、今さらながら、こちらの本を手にした次第。書籍に詳しい説明はされてないけど、20年も前から毎日更新しているという「ほぼ日刊イトイ新聞」のベスト版みたいなテイストでまとめられた書籍(※2007年出版なので、初期10年分からのチョイスのはず)とのこと。1頁当たりの文章は少なめで、フォントや文字サイズも自由で、写真と共に語られる言葉も多く、すいすいと読みやすい構成が良い。

読み進めて思ったのは、肩肘張らずに書かれた「自由なことば」というのは、読んでいても心地よいってこと。好きな音楽を聴いているかのように。

当然ながら、計算はされている言葉だと思う。それでも、リラックスした雰囲気で書かれているから、例えるなら、面白い話をいつでも普通に出来てしまうクラスメイトのような距離感が良いんだよな。おかげで、自然と受け入れることが出来る。話がうまい人っていうのは、深い話も魅力的に語れるもので、糸井さんの場合も同じだと思う。僕が感じ入ったのは、こんな言葉だった。

勝ちながら学べないのが、負けについてのことです。
そして同時に、負けながらも学べないのも、
負けについてのことかもしれません。
負け、失敗などのネガティブなことについて、
静かに落ち着いて考えられる人が、
ほんとうの強さを持った人なんでしょうね。

 さらりと書かれた言葉けど、深いな、と思う。

失敗から学べとよく言うけど、圧倒的な敗北や屈辱の状態になると、人は交感神経が過剰になりすぎてしまう。負の感情が頭に焼き付いてしまい、冷静に整理することはなかなかできない。逆に、圧倒的な勝利を収めた場合も交感神経が高ぶりすぎているから、いざ負けた場合の想定などできるはずもなく、よくある「栄光後の挫折」で駄目になるケースも多いわけだ。

武士道精神を表す言葉として「勝って驕らず、負けて腐らず」という考え方があって、大関になった若き関取が昇進での口上として述べたのだけれど、これはもう、よほどの覚悟がある人間にしか口に出来ない言葉だろう。典型的な「ヘタレ男」の僕では、言葉の意味は分かっていても、どこか他人事にも思えてしまう。

でも、糸井さんの言葉は、言わんとするところは近い。さらりとした言葉だから、ああそうだよな、と、僕にもその概念がイメージ出来る。過去の自分を振り返り、何度失敗しても生かせなかったことや、逆に、自分だけが圧倒的優位にある状態で他者を小さく傷つけたことが思い出されてしまう。そんな自分の弱さを、ふっと思い浮かべられる言葉だ。

当書籍は日常的な戯れ言も含まれているため、いわゆる「名言集」のような類いには入らない。だからこそ、自然と耳に入ってくる。愛犬や家族とのたわいない話や、冗談が入り交じる中、先ほどのような言葉がふわりと出てくるところが良いのである。

あと、以前に小池一夫さんについて語った記事で、「老いる」ということをうまく語っていると述べたけれど、糸井さんの言葉でも実感させられた。

いつまでもあると思うなよ、俺

まさしく、その通り!
明日死ぬ覚悟をしろ、なんて言われるよりもグサっと響いてくる、ユーモアたっぷりの指摘です。

僕もいろいろと「ことば」を書いているけど、これからはもっとリラックスして書いていこうと思う。

私記◆SFについて

ブログ開設からポツポツと不定期更新してきましたが、素人のことばに耳を傾けてくれている方々、ありがとうございます。愛書録としての書評記事も「ことば」をテーマにしていますが、けっこうアクセスが増えているようで恐れ多い限りです。(普段は偉そうな書き方をしていますが、私記として直接語りかける場合は丁寧な文体になります)

私記として言いたいのは、僕のプロフにもあるSFについて。さすがにブログで発表するには難しいかなと思っていたところ、某ショートコンテストが今年も開催されるということなので、そちらに集中したいと思います。このブログで発表できるような成果が得られると嬉しいのですけどね。

「私的なことば」については今後もアップしていきます。似たようなテイストで、エッセイやコミックも発表できればと考えています。

水木しげる「水木サンの幸福論」

 

水木サンの幸福論 (角川文庫)

水木サンの幸福論 (角川文庫)

 

 後世に残る「ことば」というのは二種類あると思う。一つは、言葉そのものに力が宿り、国家や時代を超えて人の心に響くもの。経典や聖典はもちろん、文芸作品の名文だってそうなることがある。

で、もう一つ上げるとしたら、その人の生き様を知った上で重みが増す「ことば」の存在だ。そういった意味では、水木しげるさんが残した言葉が良い例だと思う。ネット上でも有名な「幸福の七カ条」として記された言葉を改めて振り返ってみたい。

第一条:成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条:しないではいられないことをし続けなさい。
第三条:他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追求すべし。
第四条:好きの力を信じる。
第五条:才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条:なまけ者になりなさい。
第七条:目に見えない世界を信じる。

 これだけの文章だと、分かったような、分からないようなところだ。納得できるようなところもあるけど、「そうかな?」などと思う部分も多い。だけど、この書籍に書かれている水木さんの生き様を追っていくうちに、その言葉が持つ深さが染みてくるところが面白い。けっこう大変な時代を生き抜いてこられた水木さんだけど、独特のユーモアがふんだんに混じっているから、従軍時のエピソードですらもクスリと笑ってしまい、最後まで読んだとき、なるほどと納得してしまった。

僕自身は、年を取るまで、なかなかこの七カ条に書き記された生き方を出来なかった。自分自身は大したことがないことを認められず、ついつい、力を誇示するようなことをしたりしては、ずっと苛立ってリーマン生活をしていたように思う。フリーランスになってからも、自分が人生の落伍者であるかのように感じることが多々あって、いつか見てろよ! なんていう妙な成功欲にとらわれてばかりだった。結局の所、他者の目や社会的地位を意識しすぎていたということだ。目の前のことに、純粋に向き合えていない。

最近、毎月50万もらって…なんていう広告文が妙な炎上騒ぎを起こしたけど、あの話が問題なのは、この国で月給30万円の固定収入を得られるっていうのは生活苦になるほどのレベルではないという点にある。それくらいの収入が確実に得られるなら、かなりの人間が好きなことに打ち込めるだろう。しょせんは、無謀なチャレンジなどしたことがない、安定的な立場にいる人間の理屈なのは間違いなくて、だからこそ問題を引き起こしてしまった。良いことを言おうとしただけの「ことば」が、いかに軽いものかを示した典型例だろう。

水木さんの生き様を知れば、好きなことだけをやろうとする生き方がいかに大変かが分かる。とてもじゃないけど、僕にはここまではできない。「絵を描く」ということにひたすら純粋で、得られたわずかな収入すらも、絵や物語を生み出すための資料などに費やしてしまう情熱。多くの同業者が夢を諦める中、水木さんは続けてこられた。ご本人が言うところの「好きの力」が猛烈にあったからだろう。

ただし、好きなことを突き詰めれば成功する、などという、ありがちな成功論も口にはしていないところが良いな。頑張ったところで、失敗するかもしれない。好きなことをやり続けても報われないことも多いから、「努力しても裏切られる」というくらいに構えておくくらいのほうがちょうどいい、それでも続けられるくらいに好きなことに打ち込むべし、ということだろう。つい最近、僕はようやくこの言葉を身に染みて感じられるようになった。

人の生き様が形になった「ことば」というのは、やはり力があるなと思う。特に、一つの道を信じて生き抜いてきた人の言葉は、世の中にあふれる「テクニックとしての解説書的な人生論」では到底及ばない重さがある。だから、読書はやめられない。

個人的には、この七箇条のうちの五箇条までは、自分自身の実体験としても納得できるようになってきた。未熟な僕もようやく大人になったなあと最近は思うのだけれど、残る二つ、なまけ者になること、目に見えない力を信じること、この二つについてはまだまだだ。水木さんの経験談としては理解できるけど、自分自身の実感としては得られていない。四十五十ははなたれ小僧とは言うけど、オッサンの僕もまだ若造ということか。

水木さんは他にも名言を多く残しており、特に「睡眠の重要性」については年を経るごとに痛感するようになった。人間、よく食べて、よく動いて、よく寝るべきだ。そうして、水木さんのように、高齢になっても好きなことを続けられるように頑張っていきたい。そうすれば、最後の最後で「目に見えない世界」の存在を感じるのかもしれない。

小池一夫「『孤独』が人を育てる」

 

 平成が終わろうかという頃に驚いたことの一つが、小池一夫さんの訃報だった。ご高齢とはいえ、ほんの少し前までテレビで元気な姿を見たように思っていたのだけれど、改めて調べると、ずいぶん前(※五年前の探検バクモン)のことだった。時が経つのは実に早い。まだまだたくさんのことばを世間に向けて発してくれると信じていた。

一時期はこの方の発言をリアルタイムで触れたくて、Twitterにアカウントを持っていたこともあった。今考えると、それもずいぶん前のことになってしまう。こちらの本は、ちょうど当時の発言をまとめる形で出版されたため、たまに目を通す目的で買っただけだから、ほぼ未読状態だ。今になって、ようやく最初から目を通している。

小池さんは哲学者でもなければ宗教家でもなく、漫画原作者だ。けっこうな年配の僕だけど、全盛期の著作でリアルタイムに触れたのは、OFFEREDやクライングフリーマンあたりになってしまう。ヤンジャンでやってたマッドブル34も、なかなかのハチャメチャぶりが良かった。いずれにしろ、最近ではKindleでも気軽に読めるようになったこともあって、少しずつ未読作品に触れ始めているところだ。その著作は膨大にあるから、楽しみは当分尽きそうにない。

ご本人が「キャラクターマン」を自称するとおり、Twitterという短い文字制限の中にも、人の本質を的確にとらえる洞察力が光っている。なんと言ってもエンターテイメント性が抜群なのが素晴らしい。改めてこの発言集を読んでいるうち、こんな言葉がグサっとささった。

若い友人と楽しく話をして電話を切ったら、真っ暗になった携帯電話の画面に不意に、お爺さんの僕が映っていて驚く。地下鉄の窓に映った自分を見た時もそう。浦島太郎みたい。老人って、時の流れの速さに驚いて、何が起こったンだろうと首を傾げている若者なンだよ。

 これはもう、どんなエッセイよりも「老いる」ということをまとめた文章ではないかと思う。恩着せがましさなどまるでなく、誰にも伝わりやすい日記調の短文で、そのリアルさを老若男女関係なく共感させてくれる。そうして、ある意味での恐ろしさを感じるのだけれど、同時に、フッと笑ってしまいそうなユーモアが込められているあたり、さすがだなと思う。

少し前のことだけど、かかりつけの整骨院で直立姿勢での全身撮影をしてもらったことがある。僕は年配男ながらもそれなりにエクササイズをして体を絞っているので、「オッサンにしては若い方だぜ!」などという自信があったのだけど、Tシャツにハーフパンツ姿で撮影された全身写真を見せられると、「このオジサン、だれ?」の恐ろしさを感じてしまった。そういう意味では、小池さんの言葉がリアルに刺さってくる。

ことばにはいろいろあるけど、単に「良いこと」を言おうとするだけでは、人の心を打つほどにはならない。以前の愛書録記事でも書いたけど、多くの人に共感をさせるには、より洗練された言葉で伝えようと努めるのが当然だからだ。

この点、何十年もエンターテイメントの世界をリードし、あの劇画村塾で数々の名クリエイターを育て上げた小池さんは、理論と感性を極限まで磨き上げた創作者だ。だからこそ、Twitterでつぶやくだけの短い言葉が輝きを放ち、今を生きる若者にも届いている。

SNS過剰状態の今、無責任なまでに粗いことばが溢れすぎて、世の中はずいぶんギスギスしている。Twitterにアカウントを持っていたとき、小池さんの言葉を都合よく切り取ったりする輩が大勢いて、時にはいらだちをみせる小池さんの言葉を見るのも嫌になったこともあった。

でも、改めてこの本を読み直してみると、最初にある「はじめに」の文章中で、小池さん自身がこう語っていた。

それぞれの言葉は、僕がその時々に思ったり、考えたりしたものをそのまま文字にしたものなので、読んだ人が、それぞれ自由に解釈してもらえれば、と思います。
読む人ごとに、違う感想があった方がいい。
時に矛盾していたり、正反対のことを言っていることもあります。
でも、それでいい。
人の心は日々、刻一刻と移ろい流れていく。
朝、いいねと思ったことが、夜には腹立たしく思えたり、昨日心を震わした言葉が、今日にはウソ臭く思えたりすこともある。
受け取る側の心のもちようで響き方も変わってくる。

 人の弱さ、心の移ろいやすさを素直に認め、ある意味での「ことばの不完全さ」を知り尽くした発言だなと感心させられた。僕もこれから、自分にだけ言える「ことば」のあり方を模索しつつ、このブログで書き続けていこうと思う。そんな勇気を改めて持つことができた。

ようし、やるぞ!
などと気合いを入れ直しているところなンだよ。


小池一夫さんは、文章中ですべての「ん」をカタカナの「ン」とするこだわりがあります。

山田かまち「17歳のポケット」

 

17歳のポケット (集英社文庫)

17歳のポケット (集英社文庫)

 

この本を手にしたのはずいぶん前のことだ。当時はカバーケースに入った横長のハードカバー本で出版されていて、今でも本棚に収まっている。

当時の僕はけっこう若かったのだけれど、噂で期待していたほどの衝撃を共感できなかったと記憶している。それでも引っかかるところがあったから、そのままずっと手放すこともなかったのだろう。

今ではずいぶん年を取ってしまったけど、改めてページをめくってみると、荒々しく書き連ねられたことばの数々にどきりとさせられることが多い。感性が常人よりも鋭く、かつ、表現したいという情熱を強く持つ人というのは、何十年も先の自分自身をリアルに想像し、これだけ若いうちから悩み続けてしまうのだろう。つまり僕は、年を経るごとに彼の言葉が響いてくるほど凡庸すぎるということだ。そのことが、幸か不幸かはわからないけど。

先日、某テレビ番組で「尾崎豊に関する真相」のような特集をしていて興味深く見たのだけれど、その歌詞の多くが、尾崎がノートに書き連ねた初期案から大きく変化しているということだった。「十五の夜」や「OH MY LITTLE GIRL」など、どれもがよく知られている楽曲ばかりだ。いずれもプロデューサーの指摘に従い、もっとファンに伝わりやすい言葉に書き変えられたという。

商業主義に従い、自らのメッセージ性を抑えたということか?
そんなことはない。

一人でも多くのファンにメッセージを伝えたいなら、その言葉はより洗練されて当然だ。ダイヤモンドの原石はしょせん原石でしかなく、そのままでは光り輝くことなどない。だからこそ尾崎が残した曲の数々は、今を生きる若者にも届いている。

山田かまちの言葉は、彼の死後に発見されたノートの中から掘り起こされた。商業目的などまるでない、粗いことばだ。しかし、ダイヤモンドの原石であることは間違いない。例えば、僕が付箋を貼っているページの一つにこんな言葉があるので、ちょっと引用してみよう。

自分に救いを求めよう。
何か自分以外のものに
すべてを信頼しきっていたら、
もしそのものが消えた時、
君はだめになってしまうよ。
自分だったら消えることはないし、
消えたらその時からすべての目的は消えるんだから、
自分ほど信じられるものはないよ。

だからこうしよう。
自分さえいればどんな時でも救われている……と。
自分さえいれば、
どんな時でもいいようになろうってね。

いいな、このことば。
凡庸な僕は、年を取った今だからこそ、そうだよな! などと思えてくる。

多くの人が「ボンヤリと抱く不安」というのは明確な形を持たないものだから、鋭い感性を持つ表現者が切り取った言葉でようやく形を成していく。そして、共感する人が現われる。原石のままであっても、山田かまちの言葉には力がある。

年を取った僕だけど、こんな風に言葉を紡いでみたい。
年を取った僕だから、彼とは違う世界を切り取れると思う。