小池一夫「『孤独』が人を育てる」
平成が終わろうかという頃に驚いたことの一つが、小池一夫さんの訃報だった。ご高齢とはいえ、ほんの少し前までテレビで元気な姿を見たように思っていたのだけれど、改めて調べると、ずいぶん前(※五年前の探検バクモン)のことだった。時が経つのは実に早い。まだまだたくさんのことばを世間に向けて発してくれると信じていた。
一時期はこの方の発言をリアルタイムで触れたくて、Twitterにアカウントを持っていたこともあった。今考えると、それもずいぶん前のことになってしまう。こちらの本は、ちょうど当時の発言をまとめる形で出版されたため、たまに目を通す目的で買っただけだから、ほぼ未読状態だ。今になって、ようやく最初から目を通している。
小池さんは哲学者でもなければ宗教家でもなく、漫画原作者だ。けっこうな年配の僕だけど、全盛期の著作でリアルタイムに触れたのは、OFFEREDやクライングフリーマンあたりになってしまう。ヤンジャンでやってたマッドブル34も、なかなかのハチャメチャぶりが良かった。いずれにしろ、最近ではKindleでも気軽に読めるようになったこともあって、少しずつ未読作品に触れ始めているところだ。その著作は膨大にあるから、楽しみは当分尽きそうにない。
ご本人が「キャラクターマン」を自称するとおり、Twitterという短い文字制限の中にも、人の本質を的確にとらえる洞察力が光っている。なんと言ってもエンターテイメント性が抜群なのが素晴らしい。改めてこの発言集を読んでいるうち、こんな言葉がグサっとささった。
若い友人と楽しく話をして電話を切ったら、真っ暗になった携帯電話の画面に不意に、お爺さんの僕が映っていて驚く。地下鉄の窓に映った自分を見た時もそう。浦島太郎みたい。老人って、時の流れの速さに驚いて、何が起こったンだろうと首を傾げている若者なンだよ。
これはもう、どんなエッセイよりも「老いる」ということをまとめた文章ではないかと思う。恩着せがましさなどまるでなく、誰にも伝わりやすい日記調の短文で、そのリアルさを老若男女関係なく共感させてくれる。そうして、ある意味での恐ろしさを感じるのだけれど、同時に、フッと笑ってしまいそうなユーモアが込められているあたり、さすがだなと思う。
少し前のことだけど、かかりつけの整骨院で直立姿勢での全身撮影をしてもらったことがある。僕は年配男ながらもそれなりにエクササイズをして体を絞っているので、「オッサンにしては若い方だぜ!」などという自信があったのだけど、Tシャツにハーフパンツ姿で撮影された全身写真を見せられると、「このオジサン、だれ?」の恐ろしさを感じてしまった。そういう意味では、小池さんの言葉がリアルに刺さってくる。
ことばにはいろいろあるけど、単に「良いこと」を言おうとするだけでは、人の心を打つほどにはならない。以前の愛書録記事でも書いたけど、多くの人に共感をさせるには、より洗練された言葉で伝えようと努めるのが当然だからだ。
この点、何十年もエンターテイメントの世界をリードし、あの劇画村塾で数々の名クリエイターを育て上げた小池さんは、理論と感性を極限まで磨き上げた創作者だ。だからこそ、Twitterでつぶやくだけの短い言葉が輝きを放ち、今を生きる若者にも届いている。
SNS過剰状態の今、無責任なまでに粗いことばが溢れすぎて、世の中はずいぶんギスギスしている。Twitterにアカウントを持っていたとき、小池さんの言葉を都合よく切り取ったりする輩が大勢いて、時にはいらだちをみせる小池さんの言葉を見るのも嫌になったこともあった。
でも、改めてこの本を読み直してみると、最初にある「はじめに」の文章中で、小池さん自身がこう語っていた。
それぞれの言葉は、僕がその時々に思ったり、考えたりしたものをそのまま文字にしたものなので、読んだ人が、それぞれ自由に解釈してもらえれば、と思います。
読む人ごとに、違う感想があった方がいい。
時に矛盾していたり、正反対のことを言っていることもあります。
でも、それでいい。
人の心は日々、刻一刻と移ろい流れていく。
朝、いいねと思ったことが、夜には腹立たしく思えたり、昨日心を震わした言葉が、今日にはウソ臭く思えたりすこともある。
受け取る側の心のもちようで響き方も変わってくる。
人の弱さ、心の移ろいやすさを素直に認め、ある意味での「ことばの不完全さ」を知り尽くした発言だなと感心させられた。僕もこれから、自分にだけ言える「ことば」のあり方を模索しつつ、このブログで書き続けていこうと思う。そんな勇気を改めて持つことができた。
ようし、やるぞ!
などと気合いを入れ直しているところなンだよ。
※小池一夫さんは、文章中ですべての「ん」をカタカナの「ン」とするこだわりがあります。
山田かまち「17歳のポケット」
この本を手にしたのはずいぶん前のことだ。当時はカバーケースに入った横長のハードカバー本で出版されていて、今でも本棚に収まっている。
当時の僕はけっこう若かったのだけれど、噂で期待していたほどの衝撃を共感できなかったと記憶している。それでも引っかかるところがあったから、そのままずっと手放すこともなかったのだろう。
今ではずいぶん年を取ってしまったけど、改めてページをめくってみると、荒々しく書き連ねられたことばの数々にどきりとさせられることが多い。感性が常人よりも鋭く、かつ、表現したいという情熱を強く持つ人というのは、何十年も先の自分自身をリアルに想像し、これだけ若いうちから悩み続けてしまうのだろう。つまり僕は、年を経るごとに彼の言葉が響いてくるほど凡庸すぎるということだ。そのことが、幸か不幸かはわからないけど。
先日、某テレビ番組で「尾崎豊に関する真相」のような特集をしていて興味深く見たのだけれど、その歌詞の多くが、尾崎がノートに書き連ねた初期案から大きく変化しているということだった。「十五の夜」や「OH MY LITTLE GIRL」など、どれもがよく知られている楽曲ばかりだ。いずれもプロデューサーの指摘に従い、もっとファンに伝わりやすい言葉に書き変えられたという。
商業主義に従い、自らのメッセージ性を抑えたということか?
そんなことはない。
一人でも多くのファンにメッセージを伝えたいなら、その言葉はより洗練されて当然だ。ダイヤモンドの原石はしょせん原石でしかなく、そのままでは光り輝くことなどない。だからこそ尾崎が残した曲の数々は、今を生きる若者にも届いている。
山田かまちの言葉は、彼の死後に発見されたノートの中から掘り起こされた。商業目的などまるでない、粗いことばだ。しかし、ダイヤモンドの原石であることは間違いない。例えば、僕が付箋を貼っているページの一つにこんな言葉があるので、ちょっと引用してみよう。
自分に救いを求めよう。
何か自分以外のものに
すべてを信頼しきっていたら、
もしそのものが消えた時、
君はだめになってしまうよ。
自分だったら消えることはないし、
消えたらその時からすべての目的は消えるんだから、
自分ほど信じられるものはないよ。
だからこうしよう。
自分さえいればどんな時でも救われている……と。
自分さえいれば、
どんな時でもいいようになろうってね。
いいな、このことば。
凡庸な僕は、年を取った今だからこそ、そうだよな! などと思えてくる。
多くの人が「ボンヤリと抱く不安」というのは明確な形を持たないものだから、鋭い感性を持つ表現者が切り取った言葉でようやく形を成していく。そして、共感する人が現われる。原石のままであっても、山田かまちの言葉には力がある。
年を取った僕だけど、こんな風に言葉を紡いでみたい。
年を取った僕だから、彼とは違う世界を切り取れると思う。